「4月15日には、必ず雨が降る」という伝説があるのを、ご存じでしょうか?
これは、「梅若の涙雨」と呼ばれ、季語にもなっています。
能や歌舞伎の演目、または物語などで、梅若丸伝説にちなんだ「隅田川」のお話を聞いたことがある人もいるかもしれません。
4月15日は、梅若丸という男の子の命日です。
悲しい母と子の物語、そして現在の墨田区に存在する木母寺の梅若忌について紹介します。
梅若丸の物語について
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伝説から人々に親しまれ、物語や戯曲へと発展していった、梅若丸の話というのは、どういったものなのでしょうか?
梅若丸とは、どんな人でなぜ伝説が残っているのか?その由来などについて紹介していきます。
梅若丸とは?
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様々な物語の元になっている、梅若丸の伝説について紹介します。
京都の北白川の公家である吉田少将惟房(これふさ)という人と、美濃国野上長者の一人娘、花御膳の夫妻には、梅若丸という男の子がいました。しかし、梅若丸は5歳で父・惟房を失い、7歳で比叡山延暦寺の月林寺に預けられます。
そこでは、梅若丸は優秀な稚児だと賞賛をうけていました。
しかし、松若丸というこれまで評判の稚児がいた門院の山法師たちがこれを妬み、梅若丸を襲います。
梅若丸は大津に逃げましたが、琵琶湖のほとりで信夫藤太という悪人に連れ去られ、奥州に向かいます。梅若丸はその途中で病にかかり、隅田川の堤の上で、
「尋ね来て問はば応えよ都鳥、隅田河原の露と消えぬと」いう一首を残して、
12歳で、亡くなってしまいます。たまたま通りがかった旅の天台宗の僧侶・忠円阿闍梨が、里の人々とともに、これを憐れみ、
遺骸を堤のそばに埋めて、そこの塚を作り、その上に1本の柳の木を植えました。その翌年、里の人々は梅若丸が亡くなった日に、念仏を唱えて弔いをしていました。
その時、わが子の行方を探しまわっているうちに半狂乱になった梅若丸の母が、ちょうどこの隅田川の堤にやってきました。母親は、柳の下で皆が集まって念仏を唱えているのを見て、その理由を尋ねたところ、わが子・梅若丸のことであると知り、悲しみの涙を流しました。
母親がその夜、里の人々と念仏を唱えていると、塚の陰からわが子の姿のようなまぼろしが見えたため、話しかけようとすると、その姿は消えてしまいました。
夜が明けてから、僧・忠円阿闍梨がこの話を聞き、この地に梅若丸を弔う御堂を築きました。
母はそこに住んでいましたが、ある日対岸の鏡が池に身を投げて我が子の後を追ってしまいます。
すると不思議なことに、亀がその遺体を乗せて浮かびあがってきました。
そこで忠円阿闍梨が墓を建て、母親を妙亀大明神として祀り、梅若丸は山王権現として生まれ変わったとして、祀られました。
これが梅若丸の伝説と、現在ある梅若塚の由来で、塚は木母寺という寺の境内にあります。
梅若の涙雨
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「梅若の涙雨」とは、春の季語・気象歳時記の言葉にもなっています。
梅若丸が亡くなったのは、旧暦3月15日・現在の4月15日です。
この日は必ず雨が降るため、梅若丸と母の悲しみの涙であると伝えられてきました。
気候的にも春の不安定な時期で、雨も多く、ちょうど4月15日は雨の日が多いようです。
物語になった梅若丸伝説
この梅若丸の物語は、戯曲・小説・浄瑠璃・謡曲など数多くの作品に登場します。
中でも、最も古いのが、能・謡曲の「隅田川」です。
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最初に、この「梅若丸物語」を能に取り入れたのは、
能楽の大成者、世阿弥元清の長男で、
室町時代中期の能役者・観世十郎元雅です。
元雅の作品には、「盛久」「弱法師」などの今でも有名な名演目があります。
「隅田川」は、春の隅田川を舞台に子と母の愛情を描いた能で、狂女物の代表的傑作とされています。
この演目が作られたことから、隅田川芸能がはじまりました。
梅若丸の物語は、母子の愛情と悲劇の物語として、人々が涙を流し、語り継がれてきました。
そして、その物語の伝説の語り継がれが、様々な芸能・芸術の中に取り入れられ、広がっていきました。
木母寺の梅若忌 2024年4月15日(月)
梅若忌は、梅若丸の命日です。現在は、墨田区の木母寺で毎年4月15日に大念仏が行われています。
梅若丸を弔うために作られた、木母寺について、そして、梅若忌の法要について紹介します。
木母寺
木母寺は、墨田区にある天台宗の寺です。梅若寺・隅田院とも称されています。
木母寺は天台宗の僧、忠円阿闍梨によって、平安中期の提元元年(976)に梅若丸の菩提を弔うために、
創建されたと伝わっています。
梅若塚の上には祠があり、そこに梅若丸の霊が祀られています。
天正18年(1590)徳川家康によって梅柳山の山号を得たあと、
慶長12年(1607)には前関白の近衛信尹が参詣し、柳の枝を折って筆代わりにして、
「梅」の字を、「木」と「母」に分けて書いて以来、現在の寺号になりました。
木母寺の境内には隅田川御殿が建てられ、
徳川三代将軍家光の時代から、八代将軍吉宗の時代までの将軍が、
鷹狩りや隅田川を遊覧したり、将軍に献上する御前栽畑もあり、徳川家との関係が深い寺でした。
梅若丸母子の悲しい物語は、木母寺秘蔵の「梅若権現御縁起」として保存され、伝わっています。
◎東武・東京スカイツリー線「鐘ヶ淵駅」より徒歩7分
梅若忌大念仏法要
木母寺の梅若忌の開催予定です。
日時:令和6年4月15日(月曜日) 14時~16時30分
内容:梅若忌の命日である4月15日に梅若丸大念仏法要
講演 能「隅田川」について・芸能奉納「隅田川」・大護摩供を執行。
【14時00分】・梅若忌大念仏法要
【14時30分】・梅若泰志 演題 能「隅田川」について
【15時00分】・謡曲「隅田川」 出演:母・梅若泰 渡守・長谷川晴彦 梅若丸・梅若千音世【16時00分】・梅若忌芸能大護摩供
参加費:¥2,000-
まとめ
4月15日の、梅若忌について、紹介しました。
これをきっかけに、能や歌舞伎など、伝統芸能に親しんでみるのはいかがでしょうか?
ひとつの物語を知ると、それに関連した出来事や、日本文化をさらに理解しやすくなります。
木母寺の梅若忌では、能を鑑賞できる機会でもありますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。
また、この時期の過ごし方や行事など、二十四節気についてこちらのブログでも紹介しています。
https://kurashiniikasu-wanotie.com/koyomi/1013/